考古学・歴史学、趣味の色々な雑文


by nara-archaeol
色んな記録メディアをさらっていて、遂に日本道教学会の麥谷邦夫先生の講演の録画データを発見した。

つくづくいいお話であり、道教・儒教・仏教の関連を解き明かしておられる。

で、母屋の本を積んでる山が5つくらい雪崩れたので、部屋中本だらけになり、一応片側へ集めるだけは行ったが、その中に、これ、持ってたのか、とか、これ、ここにあったのか、とかが相次いだ。

で、その中に麥谷先生の「中國中世社會と宗教」道氣社、2002.4の精装本の方を発見した。この本には精装本と平装本があり、両方を持っている。どうやって手に入れたのか覚えていないが、多分異版の研究絡みで、古本屋を総動員したのだろう。

で、この本だが、これは、京都大学人文科学研究所の中で、麥谷先生が、科学研究費を得て、「六朝隋唐期社會における宗教文化の役割に關する歷史的研究」というテーマで平成10年度~平成13年度基盤研究(A)(2)を受けて研究活動を行った研究報告の一部として刊行された論文集である。

先にあげた日本道教学会の講演はこの研究と人文研の研究班の研究を集大成したものであるといっていいと思う。

ここで、いう、中國中世というのは京都学派の時代区分で言う、魏晋南北朝隋唐時代を指すもので、いわゆる歷研学派の宋元時代ではない。私も基本的にはここを「中世」あるいは中國史の第二段階、或いは第三段階と考えており、後漢途中までと社會構成が異なると考えている。

この研究の目標は、六朝隋唐期において、儒佛道三教を中心とする宗教文化は、相互の多樣な緊張關係のもと、あらゆる階層にわたって重大な影響を及ぼし、この時期の文化の特質を規定したのみならず、社會の安定および變動の原動力となったが、その本質を解明しようと企画する、というものであった。

四年間に都合六回の研究会を催し、11人が研究報告を行ったが、この内9人の9報告論文でこの本は成り立っている。

論文は以下のものである。

吉川忠夫「孝と佛教」
麥谷邦夫「眞父母考:道教における眞父母の概念と孝をめぐって」
船山 亨「五六世紀の佛教における破戒と異端」
都築晶子「道観における戒律の成立:『洞玄靈寶千眞科』と『四分律刪繁補闕行事鈔』」
神塚淑子「六朝靈寶經に見える本生譚」
木島史雄「中世通儒考」
古勝隆一「都講の再檢討」
荒牧典俊「則天武后乃至玄宗朝における唐詩・山水畫の成立と六祖慧能の禅」
武田時昌「中世の數學と術數學:科學と宗教の習合點をめぐって」

孝という中国における大問題についての2つの論考をはじめとして、戒律という問題にかかる2つの論文に進み、そして、佛教の本生が如何に道教で料理されるのかを明らかにしようとする試みを挟み、「通儒」なるものや講義解釈にかかる問題に触れた2つのもの、そして、「唐宋変革」と「中國禅の確立」は関連ある歴史事象という目論見の元に組み立てた意欲作、最後が宗教と科学の関連を術數學の中から見出そうとする試みで、本論文集は終わる。

当該時代における、宗教の役割は中国史上で最も大きいと思えるが、その時代特性を明らかにしようとする試みであり、一読を勧める。

以下からPDFをダウンロードできるので、興味があれば読んでみてください。
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~dokisha/pub.html

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# by nara-archaeol | 2017-09-21 03:06 | 東洋史
ここ、全然更新していないが、実の所夏の疲れなのか、寝れないのだけど、眠たくだるいという状態で、書く気力を喪失しているのである。

書くことがない、という訳ではないのだが、気力が出てこないのである。

知人の葬儀以来どうも上がってこないのだ。

7777のキリ番も、8000アクセスもあっという間に通過しており、そのことすら書くことが出来なかった。

ここに書いているのはリハビリとしての文章である。

台風は少し当方ではおどされた分拍子抜けだった。

被害が大きかった地域には申し訳ないのだけど。

ちょっと頭休めて、復活を目指します。

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# by nara-archaeol | 2017-09-19 23:38 | つれづれ

この数日のこと

十津川で車のカギを発見したくだりは書いたが、書いてつくづく思ったのは、2日間誰も歩かなかったということだ。

歩く人がいて、変に拾われていることが一番発見できないことに繋がると思っていたのだが、十津川村では役場付近以外で歩いている人を見た事が無いのだが、やはりその通りなのだろう。家の前で車に乗って、目的地で降りて、目的果したら家の前で降りる、という生活形態なのだ。

で、翌日車を動かせることを確認した後、家でゆったりし、温泉に行くか、と思っていたら、社長から電話があり、手伝ってくれ、ということである。昨日の恩義有り、一つ返事でOKと言ったが、ちょっと重たい、という一言が付いていた。

社長と社長の本家の当主さんが車で来た。

え、何をしたらいいんですか。

廃棄物で廃棄したら、これはダメと言われたので、再度引き上げに行くのだ、という。

で、取りに行く。

ものすごい数の廃棄物を一旦使っていない倉庫へ積み上げる。もう積み上げるという表現以外の何物でもない。

バンに載せては、降ろし。また行って載せて、戻って降ろす。これを合計4回、私は内3回に参加。

社長速い話一回目で根を上げて人間増やすことにしたのだ。まあ無理ない。

一回1.5トンくらいはあったから、計6トン。

3人で運ぶ荷物量ではないな。

終わったら19時過ぎ。

社長ご飯おごる、と言って下さったので、20時過ぎから回転寿司へ。

なんだか、火がついて17皿とデザート食べてしまう。

さすがに寝れた。

翌日Aさんのパソコンが壊れ、入れ替えのパソコンを手配していたのが、Aさん宅へ到着していたので、セットアップに行く。

プロバイダのソフトウェアをインストールして、リブートすると何とMBRがあの世行きになり、ブート不能となる。

何回か格闘するも成功せず、B君と合流一旦ご飯食べに行く。

で、以前の「大和高田食べ歩き」に載せた、チャラリンへローストビーフ丼を食べに行く。
http://naraarchae.exblog.jp/24972512/

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丼とサラダにスープ、で、以前よりサラダが豪華になっていたように思えた。

おいしいでした。やっぱり。隣にいる人何か見覚えがあると思っていたら、知り合いだった。世間は狭い。

戻って再び格闘、何とかWindows10ブートさせることに成功。後日インストール完成させることに。おそらく何らかの電気的な問題でイーサネット関係があの世行のようで、WiFiは生きているので最悪WiFiで接続の復旧を行うという基本方針で行く事にする。

疲れたのか判断力悪い目覚め。雑誌購入に行き、食料を少し買いだめ、粗夕食を食べる。

翌、ボーと過ごしていてもと、振り絞って吉村氏の遺品整理。

夕方にAさん誘って温泉へ。

のんびりした後、御所市の広報を入手して、ついに人口が2万6千になったことを知り、危篤状態だなと思う。

御所市の人口は4万人だったのだから、すごい減り方だ。

小中学校を統合で一つにするという話も聞いているが、それをやると子育て世代が更に流出する可能性が高いと思う。特に葛(くず)地区、葛上(かつじょう)地区はもう住めないんじゃないか。

子育てできるからかろうじて残っているのであって、通学バスの運用に縛られるとなると、もう無理して住む必然性がない。

大丈夫か御所市。

尚広報を見ると、以下の催しが載っていた。

関心があれば、いかがでしょうか。

「葛城の歴史を知ろう 平成29年度3回学習会 法螺貝の不思議」
民俗学的なお話である。講師は天理大学教授斎藤純氏。
2017年9月16日(土)13:30- 御所市五百家のかもきみの湯2階会議室

二人で夕食を食して帰る。寝付けず、朝方から寝れて、夕方6時まで寝込む。

吉村さんの遺品整理を少しして、寝ようとしているが寝れず(今ココ)

これから寝る努力をしようと思う。

こういう日々であった。それなりに動いているとは思っているが、体調の悪さは改善していない。

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# by nara-archaeol | 2017-09-07 03:18 | つれづれ
大抵有名な科学雑誌、Natureが開催するイベントの案内をしておきます。(東京芸大共催)

http://forcast.emailalert.jp/c/aqrAahxCoTiA1vab

開催日:2017年10月8日(日) 15:00-17:30 (懇親会:17:30-18:00)
場所:東京藝術大学上野キャンパス

パネリスト:
   西川 伸一:京都大学名誉教授、東京藝術大学AMSプロジェクト発起人
  近藤 伸介:東京大学医学部附属病院精神神経科特任講師
  Thomas Kornberg:カリフォルニア大学サンフランシスコ校、生化学・生物物理学教授
  澤 和樹:ヴァイオリニスト、東京藝術大学学長

事前参加申し込み要(下記から申し込み)
http://forcast.emailalert.jp/c/aqrAahxCoTiA1vad


藝術と科学という接点がなさそうで、大いにある、二つの状況を語る場になってほしいですね。

MIT(マサチューセッツ工科大学)ではデザインというか、芸術的要素を、大いに教育されます。
日本は余りに職人的養成をしすぎています。

この「芸術的」という問題を考えるものかと思います。

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# by nara-archaeol | 2017-09-06 01:08 | つれづれ

十津川お笑い顛末記

<写真追加して増補しました。>

先週は忙しく、手代仕事を中心に動いたので、日曜・月曜は寝て過ごした。

火曜日、夕方より、出かけ、会合などに参加、零時回って帰宅。

水曜、それで半分眠いのを押して手代仕事に行く。

食堂で昼食後、某民宿に納品、十津川村の平谷まで下り、十津川の道の駅などへも寄ったが、山崎という集落へ上がって、元の小学校の建物や、地域医療に貢献した医師の碑、十津川村では大変珍しい稲田を見物した。

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              十津川でのおそくじ
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             民宿のとんぼ
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              山崎のたんぼ
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                山崎の渋柿

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              山崎の家々
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               佐古高英医師夫妻の碑
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             旧小学校
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               平谷のバスターミナル付近

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               役場付近のホテル
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             十津川村役場
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                道の駅
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               道の駅の足湯


見事な二村小学校の廃墟を対岸から見物し、遂に写真に収める。

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上野地でガソリン入れ、アイスクリームを食し、二カ所コメを納品し、大塔でコメの納品後、帰宅。車を降りてから、自分の車のカギを十津川村で落としてきたことに気づく。

車の守をしていたのが、多かったので、車から降りたのは6カ所、そのどこかで落としたらしい。

車は登録してるカギしかエンジンがかからないので、ただの金属の塊と化す。

十津川警察に電話で届け出し、自分が降りた箇所で電話番号が分かった所へ、電話し、もしあったら、取っておいてもらえるようお願いする。

気になって眠り浅い。

木曜、吉村さん宅へ整理に行き、遅くなって帰り、遅い食事。

金曜、社長が十津川へ別件で行くとは聞いていたので、頼んで連れていってもらい、まず食堂前の駐車スペースをチェック。これは×。

社長が用件を果しに行く間、散策に歩き、豊臣秀保の終焉の地の碑を発見する。

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ああ、ここがあの歴史的事件の場所なのか、と嘆息する。

豊臣秀保は、豊臣秀吉の姉、とも、の3男として生まれた人物で、豊臣秀吉の弟、豊臣秀長の娘でいとこの、きくの婿となり、大和郡山城主(百万石)となった。家老が藤堂高虎と桑山重晴である。

秀保の兄二人は秀次と秀勝で、共に秀吉の養子となったが、秀次は文禄4年に粛清され、秀勝は織田信長の子で、秀吉の養子であった、於次秀勝の名跡を継ぐために養子となり、丹波亀山を領し、九州遠征でそれなりの手柄を立てたが、所領をもっと欲しい的なことを言い、結果失脚したものの、小田原遠征に加わり、結果、甲斐・信濃で所領を得たが、母のとも(瑞龍院日秀)がもっと近くにと嘆願し、美濃岐阜に入府した後、朝鮮遠征に参加し、朝鮮の支配者候補とされたが、巨済島で、戦病死している。秀勝は徳川秀忠の妻となる、浅井江と結婚しており、間に生まれた完子という娘があり、九条家に輿入れ、子孫が今も残る数少ない、豊臣秀吉一族となっている。(後は私が知る限りでは秀次の娘で、真田信繁(幸村)の妻となった人物の子孫)

で、秀保は、兄の秀次が粛清されるのと同じような時期、皮膚病となり、十津川へ湯治に出かけ、そこで、病死したことになっているが、これには異説があり、一つは家臣に謀殺されたということが伝えられており、私が聞いた話なので、信ぴょう性は×だが、1)気がくるって飛び込んだ、2)小姓が後ろから羽交い絞めにして飛び込んだ、3)家臣数名で溺死させた、というのを聞いたことがあった。まあともかくそうした何かの事件性も疑われる死を迎えたのがここで、まあそれにふさわしそうな石場をみつけたが、その辺りで、ともかく死を迎えたのであろう。疑えばこの3ヶ月後に秀次の粛清があり、その前振りである可能性も無きにし非ずだとは思う。大納言は追贈したものの、藤堂高虎の養子になっていた秀長の養子高吉を当主に戻す藤堂の案も却下され、大和郡山豊臣家は廃絶となり、秀頼一点集中へ進んでいったのである。藤堂は嫌気をさして高野山に隠棲、出家した。これが徳川家康の家臣となる契機となったと思う。

しかしながら景色のいいところで、温泉臭も漂い、田舎であるため400年前と大きくは変わらないであろうから、秀保もこの景色を見ながら亡くなったのかと思うと気の毒になった。

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社長と合流、道の駅の駐車場と足湯の周りを探すもなし。

道の駅二階のそば処で昼食。たまごかけご飯の定食。少しそばはゆですぎの感。

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卵かけご飯と専用の醤油はおいしい。

道の駅のレジで聞いたものの、カギはなし。これで可能性のある内二ヶ所×。

で、一番可能性が高いと思っている山崎集落へ社長に行ってもらう。

見に行った稲田(倒伏していた稲田)のところで降ろしてもらい、降りたところの方へ逆走していった。社長は降りたところから逆走してもらうことに。

で、佐古医師の碑を過ぎて、旧山崎小学校の辺りの道端を精査していると社長の車が。

「あったで」

良かった。本当に良かった。

何か肩の荷が下りた気分になり、ようやく目が覚めた感。

はればれとした気分の中、旧二村小学校のところから、コメの納品に行き、上野地に戻り、納品を手伝い、大塔から五條へ。

帰ってからエンジンかけてみて大丈夫、で、夕食などを購入に行き、家で、ここを見たら、8月1900弱のアクセス。警察や問い合わせをしたところに見つかったことを報告。

疲れたのか、寝てしまい、起きたのが今さっきで、この記事を書き始めた。

そんなこんなのお笑い顛末であった。

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# by nara-archaeol | 2017-09-02 00:42 | つれづれ