茨城県美浦村弁天塚古墳と色川三中(黒坂命・常陸国風土記・大塚古墳群)
2017年 12月 13日
むかしむかし放浪していた時に、JRAの美浦トレーニングセンターと陸平貝塚を見学に行った折、道の横で確認して、見に行ったのが、この古墳であった。
この地域には大塚古墳群という、10基以上で(6基は消滅)構成される古墳群があり、その内の一基がこの弁天塚古墳、或いは黒坂命古墳と呼ばれる古墳であった。
円墳で径50m以上の大きなものである。
データ的には、高橋嘉朗氏「美浦村の古墳と古墳群」美浦村史研究.6号,1990、種石悠氏「茨城県稲敷郡美浦村弁天塚古墳の測量調査」茨城県考古学協会誌.18号,2006というものがあるが、それ以上に古墳に関しては参考に付すべき文献がある。
それが、色川三中の「黒坂命墳墓考」であり、土浦の商家の主人で、国学者であった、色川三中(1801-1855)の畢生の江戸時代考古学発掘報告として、考古学史に燦然と輝く業績である。
色川三中については、中井信彦氏「色川三中の研究.学問と思想編・伝記編」の全二冊(塙書房)、それに弟美年と二人で書き続けられた日記「家事志」(1826年5月より、弟の分と合わせて全6巻で土浦市より翻刻販売)、そして、黒船が来た折の事情などをまとめた「片葉雑記-色川三中黒船風聞日記」中井信彦氏編,慶友社,1986がある。
で、この黒坂命墳墓考であるが、この美浦村大塚の堀越家に伝えられている本と奈良県天理大学図書館が所蔵する本が存在しており、四種本があり、天理本はこの4種本、堀越家本は地元への覚え本であると思われる。
黒坂命とは、常陸国風土記に大和から派遣されて従わない茨城のものを平定したと記されている人物で、葬送のこともその記事に見えるので、色川三中はこの辺りに目をつけていたようです。で、1847年12月、この古墳の上にある弁天社を村の不幸を払う目的で新調した際、石棺が発掘されました。色川は現地に飛んで書き上げた調査報告がこの黒坂命墳墓考です。
出土したもの:
石棺
人骨
剣 多数
甲冑
鏡
当時では用途不明のもの
(おそらく玉類もあったのではないか)
出土品は現在行方不明
で、色川は色んな史料を駆使して黒坂命の墳墓と考証を行っており、かなりな水準の研究を行っている。
考古学研究或いは、日本好古学の歴史研究で非常に重要な事例なので、思い出したので書いてみました。
いつか黒坂命墳墓考自体も紹介したいと思っています。
<増補>12.19
以下に、高橋嘉朗氏の「美浦村の古墳と古墳群」美浦村史研究.6:pp.28-46,1990のこの古墳の文章を転載して参考にふしたい。
「(1)大塚古墳(弁天塚古墳)
安中地区に残る美浦村の中では中級の古墳で、近世の弘化四年(1847)中下腹に稲荷社のあったものを墳上の弁天様と同様に墳上に祭祀しようとして掘り出したところ、弁天社の宮脇から石棺が出土して驚いたといわれている。色川三中の黒坂命墳墓考によれば、この塚は多賀郡十王町で病死した黒坂命の墓であると批定している。当時は兵が死する時はその地に葬り、大将死したる時は生地に運ぶ習慣であったので、将である黒坂命は信太の地まで、ひつぎ車で運び、埋葬したのではなかろうか。」
少しまとまりの欠く文であると思うが、昭和63年、平成元年に行われた村史関連の調査の報告として引用しておく。