コロナ騒動と言うべきか、人間VSウイルス戦争と言うべきか、いささか思うところもあるが、この結果少なくとも私が細々ながら続けてきた、歴史の勉強会が吹っ飛んだ事は事実で、中世は知らぬが、少なくとも近現代で初めての事であろう。スペイン風邪やソ連風邪の際も外出制限などという坑ウイルス施策は国際的に取られた事はなかったから、人類史上初めての事態を私たちは経験するという貴重な証人となった、本意でなくとも。 私は昨年梅雨辺りから謹慎状態からくる一種の引きこもりの結果、昼夜逆転、外が明るくなるまで眠ることができず、8月ようやく天満橋の主治医のクリニックに行くまで、不眠症との戦いをする羽目となっていました。主治医が薬を変えてくれた結果眠れるようにはなったのですが、代わりに食欲を失い、週の半分は絶食、しかもそれが全く苦にならないという重症度で、13キロ近く痩身するという事態で、意識的ダイエットでやせたのではないので、困った事になったという感想以外なかった。
で、本論に入っていきたい。 兵庫県の凄いのは、まず、日本で唯一、日本海と太平洋(瀬戸内海ですが)の両面に面していること、それに江戸時代までの区分で行くと、例えば奈良県だと、紀伊や伊賀であった時が一時的にあった場所を細かくみるとあることはありますが、基本は大和の国一国で成り立っています。和歌山県は普通には紀伊一国と思われていますが、実は東の北牟婁郡、南牟婁郡の2郡を三重県に渡しており、紀伊全部が和歌山県となった訳ではありません。
兵庫県の凄いのは、この形成してる国の数です。伊丹市や尼崎市が属した摂津(神戸市は西方が播磨なので全域摂津ではありません)、そして姫路・加古川・明石を主とする播磨、篠山や三田等の丹波南部(丹波の大半は福知山・亀岡など京都府です)、そして豊岡を中心とする但馬、淡路島全域の淡路、そしてここは忘れがちですが、赤穂西方の、元は岡山県でありましたが、兵庫県側からしか行けないので、住民運動して兵庫県に編入となった、備前の国の本当に一部、からなるという異様さです。
この文では、その播磨の数か所を紹介して、播磨の特徴というか、兵庫県に住んでいないものが感じた、兵庫県西部の印象のようなものを披瀝し、歴史の見方の一端を示して、歴史というものは何か、という事を考える機会としたいと思います。
歴史を時間の流れを解明する学問と考えれば、ビッグバン以降宇宙が形成されていく、天体物理学や、地球史を対象とする地学も歴史学を構成するものと考えられますし、医学は根拠を必要とはしますが、病気治癒の歴史学であるといえなくもありません。極端に言えばこの薬飲ませたら治るという事を歴史的に位置づける学問という一面があると。
さて北方の山岳地帯に入るかの辺りまでと、明石市や神戸市西区などの東播磨を含め、播磨は結構広い。
少なくとも大阪府を形成する、河内の国、和泉の国、香川県を形成する讃岐の国よりも大きいので、一国ですが、地域地域の違いが存在します。
また微妙に京都から近く、しかも南部は陸路の山陽道、そして瀬戸内海の航路の拠点となりました。
明治以降、海外との交易が主となり神戸がそうした港湾の中心となるまで、例えば西播磨の室津は瀬戸内海航路の一大拠点でした。古代の遣唐使などの拠点であり、中世も交易、あるいは荒天の避難所、風待ちの立ち寄り所として、更に江戸時代には北海道から日本海、関門海峡から瀬戸内航路へという北前船(きたまえせん)、朝鮮通信使、参勤交代大名の寄港地として発展し続けましたが、これらが全て無くなっていく、明治期からただの漁港へ落ちぶれていったと表現するよりない町となっていきました。
室津に近いですが、赤穂市の坂越(さこし)も赤穂藩の港湾として重要な位置を占めます。赤穂の塩田で作られる塩は赤穂藩の重要な生産物であり、交易品であったためです。
話を変えますと、近世に檀家制度という縛りができるまで仏教を中心とする宗教勢力も武士と並ぶ重要な要素でした。
播磨に絞れば、西国三十三所観音巡礼の、清水寺、一乗寺、円教寺、の他、法隆寺や東大寺の荘園があった為、法隆寺関連の加古川の鶴林寺、姫路近郊の斑鳩寺、東大寺関連の小野市の浄土寺、加東郡の朝光寺、などの名刹は数限りなく存在します。
この文章では港湾都市として、室津、坂越、仏教寺院として、浄土寺を取り上げて、紹介と解説を行い、歴史の見方、面白さを読み取っていただければと思います。
1)たつの市・室津
近年の合併でたつの市となった室津。万葉集のような歌集にも収録される播磨随一の港湾です。
結果、おびただしい歴史的人物の逸話を残す町となりましたが、北前船の後継の交易船が帆船から切り替わり、また大名の参勤交代が廃止されると寂れ、なんと一つの町に7つもの本陣を要するという東海道や中山道でもないような宿としての格を誇ったこの町を崩壊させました。
今は牡蠣の養殖に、瀬戸内海の漁業で暮らす、普通の漁村となりました。
ただ昭和後期までは、江戸時代からの街並みが残る事で、一部の建築研究者の注目を浴び、現在の伝統的建造物群という顕彰の先駆的研究が行われた場所となりましたが、まだ街並み保存という考えが定着する以前であったが為、牡蠣などで収入が確保できた結果江戸期からの街並みの家が一軒消え、二軒消え、して、後で述べる、坂越に比べ、昭和中期以前の家が殆どないという事態となったのは惜しいことでした。
行くのも衰退を象徴するかの如く、山陽電鉄の網干から平日に至っては1.5往復のバスがあるだけとなっています。
室津と室の字を使うだけあり、U字の退避しやすい湾構造です。
私が最初に室津の名前を知ったのは、上本町から布施の間のどこかの駅で、司馬遼太郎さんにあったら、街道をゆく、で室津へ行くか、行ったというお話を聞いた時で、いつか行ける日が、と思っていましたら、ようやく姫路の子供の所へ行く機会にレンタカー借りて行けました。
資料館として、室津海駅館、室津民俗館があり、古い建物が立ち並ぶ、例えば岡山県の吹屋のような街並み散歩では満足感が得られるとは言えませんが、それなりの楽しみが得られます。
一度は見に行かれる事をおすすめします。
2)坂越(赤穂市)
ここはかすかに名前のみ知っていた所で、この4月、姫路駅でパンフレットもらって詳細を知り、電車で訪問しました。JRで行けるので、室津に比べると圧倒的に訪問しやすいと言い切れます。
で、息子と二人、赤穂線の坂越駅から歩いて約15分、昭和中期以前の建物が立ち並ぶ、美しい街並みに入ります。このため、坂越は日本遺産指定となっています。
行きました折は緊急事態宣言下でしたので、資料館等はすべて閉館。したがって細かい歴史は知りえませんでしたが、詳しく知りたければ、ネットでだいたいの情報を得ることが可能です。
ともかく美しい街で、私が見たナンバーワンは岡山県吹屋、ついで、福島県大内ですが、それに次ぐものと思います。奈良県今井町、奈良町は別格として、奈良の五條本町・新町は文化財の数では圧倒的ですが、1970年代まで商店街として機能していた為統一感に欠けるので、坂越に負けてるというのが、感想でした。
播磨を長く支配した赤松氏の一部は護良親王の下で鎌倉幕府と対決した歴史を持つ為、一族内に親南朝勢力があった為か、横道入った所に、南朝最後の天皇、後亀山の子供、小倉宮の墓と伝えられる、時代があわない石造物ですが、存在するのが興味深い、という感想を述べておきます。
3)浄土寺(小野市浄谷)
ここへは何度も行っているので、感想、日本随一の国宝の一つ、の一言に尽きます。
同じ形式を持つ建物で残っているのは奈良・東大寺の南大門のみ、という貴重さを誇ります。
平清盛の子、重衡(しげひら)が南都勢力(軍事力を持っていた興福寺・東大寺等)と合戦に及び、その際軍事的優位を得る為に放火した為、両寺院は幾つかの建物を残すのみの焼け野原となりました。
尚、重衡は後に逮捕され、東大寺・興福寺の手で京都府木津川市で死罪となっています。
結果天皇家の寺である東大寺は天皇家の分家である源頼朝がスポンサーに、藤原一族の寺である興福寺は藤原氏の血を引くとされる人々によって再建される事となり、東大寺には造営費用として、伊賀国、播磨国、周防国(山口県南部)からの税金や木材が与えられ、再建代表者の重源上人が指揮を執り、伊賀別所(伊賀市大山田の新大仏寺)、播磨別所(浄土寺)、周防別所(阿弥陀寺、廃仏毀釈で廃寺)などの勘定所兼ねた寺院が建てられましたが、現在まで残ったのは、この浄土寺の国宝・浄土堂のみです。
なお、この時再建された、東大寺・興福寺の建物の殆どは、戦国期、主家細川家にとって変わった、三好家と成りあがった松永久秀軍の戦闘で焼け、現在の大仏殿は江戸時代、天皇家の血を引くと主張した徳川将軍家の綱吉が主体となって再建したものです。
浄土堂内には快慶作の7m位の阿弥陀三尊(立像形式)が納められ、日が西に沈む頃になると光の取り込みと反射を利用した、赤く極楽を思わせる仏像の見せ方がなされるという良く計算された建造物です。
浄土堂と向かい合った所に阿弥陀=西に対峙する、東の仏、薬師如来をまつる薬師堂が配置されていますが、薬師堂は再建建物で、非公開なので、外観を見るのみとなります。
少し交通の便が悪いのが難点ですが、加東市の朝光寺本堂(国宝)、加西市の法華山一乗寺の兵庫県最古の建造物、古法華の白鳳~奈良の石仏、同じ市内のやはり奈良時代と思われる石仏や、ユーモラスな北条の石仏など見どころ多いので、うまく組み合わせて同県内ですが、一泊二日位で回られる事をお勧めします。
加古川市の鶴林寺太子堂も国宝で、これに、江戸時代からの川の交易を物語る、滝野の闘龍灘なども見ていただきたいと思います。
付)赤穂市立有年考古館
私が歴史に興味を持ち始めたのは小学校4年生の頃でしたが、初めて考古学の報告書らしきものを見たのは1970年前後の、播磨西部の考古学の大立者、松岡秀夫氏(1904-1985)の二冊の報告書でした。京都の綜芸舎が発行していました。
この本で、赤穂の北、多分赤穂郡有年村→赤穂郡上郡町→赤穂市、と変遷した、有年(JRの駅あり)で尊敬していた兄の眼科医が突然死去し、兄の後を継いで松岡眼科病院を続けながら、趣味の考古学・歴史学研究を続け、川西市加茂の宮川雄逸氏の私的博物館、宮川石器館(1936)に続く兵庫県内の私立の考古系博物館、有年考古館を1950年に開館している。2011年赤穂市に施設が寄付され、赤穂市立有年考古館となった。
最初に見た松岡氏の報告書は、兵庫県上郡町別名出土の銅剣(有年考古館・綜芸舎、1969.07)で、入場無料のこの館の展示室入った所にこの剣が展示されており、また復元品も別に展示されている。
松岡氏の報告書で最も著名と思われるのは、兵庫県赤穂郡西野山第三号墳(有年考古館、1952.10)で三角縁神獣鏡が出土した古墳として知られる。これも同古墳の他の遺物と共に最初の展示室にあり、同じく復元品も別に展示されている。
尚、岡山県津山付近に多い、陶棺(古墳で遺体を収めるもの)に類似したものがこの辺りにはあったらしく、展示されているのが興味深かった。
写真は後日添付します。