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考古学・歴史学、趣味の色々な雑文


by nara-archaeol

墳墓堂覚書-古代・中世の墳墓堂を考えるシンポジウムによせて

 12月5日(日)9:30より、山形県立博物館講堂で副題のシンポジウムが行われる。

 発表者のお一人が筆者の友人であるので、お尋ねに助言をしている内、頭の中で纏まった墳墓堂について筆者の捉える概観をここに書いておこう。

 まず、墳墓堂とは何か、である。簡単にいうと、お墓をいわば本尊と化して、屋根のある建物で覆ったもの、という乱暴な定義がたてられる。現存する中尊寺の金色堂とか、廃絶した源頼朝の法華堂、北条義時の法華堂、それから遺骨にあたるものを収めたと考えられる大阪府羽曳野市の通法寺の源頼義の「観音堂」(廃仏毀釈で破棄)、などがすぐに思い当たるが、天皇家でも、現在も残る近衛天皇の陵の多宝塔、それから焼失しているが、白河や後白河の七重塔などがある。鎌倉においては、頼朝にならって墳墓堂を作ろうとしたものは多かったであろうが、鎌倉は土地の問題で、崖に穴を掘って形成された「やぐら」が成立したと筆者も考えている。「やぐら」を見ると木造建造物の屋根裏を擬似的に作りこんでいる。これは木造建造物の代用であった。
 で、逆にこの「やぐら」が武士の首都鎌倉で流行しているから、と房総半島、陸奥、九州などでも、土地があるのに作られているのは、ある種本末転倒的で面白い。
 先年ようやく報告書が出た、横浜市の六浦「上行寺東遺跡」はまさしくこういう墳墓堂に寺の性格を加味した典型的なものだった。これが「真言律」と関わることは示唆的である。
 というのは兵庫県川西市の多田院(源満仲霊廟のあったところ)は天台密、真言、真言律で運営され、金剛乗佛教の拠点であったからだ。同じように足利市の鑁阿寺も真言、おそらく樺崎寺も真言又は真言律で、これは祖師から相伝される、という形態を取る金剛乗佛教、の祖先祭祀(追慕崇拝)的性格と無縁でないと思われる。

 奈良時代から平安中期までは、前の時代の古墳を壊したり、横穴式石室を再利用したりして、墳墓を営んでいる場合もまま見られ、そこには死者に対する「畏れ」をそれほど見出せない。(詳しくは間壁氏の論などを参照)
 例えば、日本霊異記には、佛・法・僧に対する畏れは見られるが、墳墓へのタブーは見受けられないようだし、もし墳墓への恐れを持っていたのなら、平城宮中枢下に削平されている前方後円墳はどうなるのか。
 或いは藤原(新益)京の下の四条一号墳など。
 また藤原道長が祖父だかの墓を探して宇治の墓へ行ったが、どこか分からなかった、的な記録がある点から見ても、死んだ時に儀礼をするのみで、「穢れ」の思考の問題か、「墓」を重視していない様が伺え、ある意味インド的ですらある。要するに民俗宗教としての日本佛教は未だ行き渡っていなかったと見ることも可能だと思う。浄土信仰が高まる中、この巨椋山墓地にかかる、浄妙寺が作られるのは先祖祭祀のあり方の転換を物語っているのではあるまいか。浄土信仰との絡みで言えば、真言宗を浄土信仰にも耐えうるように、再構成を行った、覚鑁が真然の墓を整備して、墳墓堂として多宝塔を建てたことは極めて示唆的であると思う。

 筆者が考える墳墓堂の原型と思えるのは、入定中であるとされる空海廟である。空海の祖師の不空金剛も廟堂的な葬送をされているようであり、金剛頂経系密教の葬送形態が母体になった可能性があると考える。空海の甥真然についても墳墓堂が営まれている。灌頂・相承の中で祖師追慕が密になされた結果だと思う。
 高野山奥の院空海廟前の墓地は墳墓堂の銀座状態であることも空海にならって、という側面も否定できない。

 16世紀になると、黄檗宗とか明国からの亡命者による亀趺碑の造営と、墳墓堂の維持にかかる費用の問題もあって墳墓堂は廃れていくと考えている。
 実際江戸後期まで墳墓堂を作るのは徳川将軍家くらいであることがそれを表していると思う。
 子孫が絶えた源頼朝廟堂は再建されることがなかったし、確か川西市の多田院の源満仲廟も再建がままならない時期があったことは、廟堂の維持の経済的負担が重いものだったことを物語っている、と思う。卑近な例で行くと、1945年に焼失した徳川将軍家の廟堂は再建されていない。
 個々には実証の必要があるが、概念的には上記のように真言宗の廟堂を原型に富貴層の葬墓制として広まったもので、空海や不空にあやかろう、そこへ浄土信仰の広まりで追慕という思考が「穢れ」の思想を上回って、祭祀の対象としての墓所の成立の中で成立し、建設と維持費用の問題から石造物に道を譲りながら、徐々に退場した、と考えている。
 最近まで、特に土葬に際して、方形の木製の簡易な上屋を埋葬した上に置いて、朽ちるまで置いていたのは、墳墓堂の形態の盲腸的残存であったと考えている。

 ともかく以上が現在筆者が考える「墳墓堂」というものに対する考えである。当然賛意と反論があろうと思うが、このような雑文でもたたき台になれれば幸いである。

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シンポジウムの詳細

9:30~ 9:40 開会と日程説明 山口博之(山形県立博物館)
9:40~10:00 研究会の趣旨説明 狭川真一((財)元興寺文化財研究所)
10:00~11:30 「文献に見る墳墓堂」 勝田 至(芦屋大学講師)
11:30~12:10 「中尊寺金色堂」 吉田 歓(米沢女子短期大学)

12:10~13:00 昼 食

13:00~13:40 「東北の墳墓堂」 山口博之(山形県立博物館)
13:40~14:20 「関東の墳墓堂」 齋藤 弘(栃木県立学悠館高等学校)
14:20~15:00 「鎌倉の墳墓堂」 鈴木弘太(岩手県一関市教育委員会)

場所 : 山形県立博物館 講堂
(山形県山形市霞城町1 番8号TEL 023(645)1111)

関心のある方はどうぞ。

なお、日本道教学会の大会は、11月13日(土)関西大学千里山キャンパス第1学舎5号館6階
で、
午前の部(午前10時~午前11時50分)

開会式         挨拶  関西大学学長   楠見 晴重
大会準備委員長   吾妻 重二
日本道教學會会長  山田 利明

研究発表
 旧北京の碧霞元君信仰―妙峰山娘娘廟会を中心に
関西大・院  二ノ宮 聡
司会 松本 浩一(筑波大)

 道教の斎法儀礼における命魔の観念
早稲田大・院 王 晧月
司会 神塚 淑子(名古屋大)

 白玉蟾と道教聖地
専修大  鈴木 健郎
司会 奈良 行博(大阪芸大)


休憩(午前11時50分~午後1時)

午後の部(午後1時~午後5時)

研究発表
 両晋南北朝時代における観音の偽経とその展開
―『高王観世音経』を中心に
龍谷大   田村 俊郞
司会  池平 紀子(大阪市立大)

 江戸時代中期の山口貫道著『養神延命録』について
森ノ宮医療大  坂出 祥伸
司会  奥野 義雄(元奈良県立民俗博物館)


国際シンポジウム「道教研究の新側面―周縁からのアプローチ―」
 日本からの視点
東京成徳大  増尾 伸一郎
 韓国からの視点
梨花女子大   鄭 在書(チョン ジョソ) 含通訳
 ベトナムからの視点
ベトナム宗教研究院   大西 和彦

学会員以外の参加歓迎です。
by nara-archaeol | 2010-10-24 21:29 | 考古学関係