Praktinaについての覚書 プラクチナ
2016年 11月 28日
システム一眼というのは、後のニコンFシリーズやキャノンF-1がそうであるように
フィルムの長尺パック(長ーいフィルムを入れて300コマとか撮影できるケース
みたいなの)とか、自動でフィルムを巻き上げ、シャッターをチャージする、
モータードライブとか、あらかじめ用意された色んな交換レンズ群とか、と準備
したカメラシステムであり、そうしたものの第一号がPraktinaであった。
このカメラの事を知ったのは90年代の事であり、ベルリンの壁が崩壊して東独の
物品がざーと流れ込んできた時期にゲットしてしまったことに始まる。
ふーん、これがあのプラクチナか。
で、撮影してみた。イエナのTessarがついていた機体だったと記憶する。
え、これ本当に50年代のカメラなの。描写見事なんですけど。
で、お散歩カメラに一気に昇格し、93~98年ころの私の撮った写真のかなり多くは
Praktinaによって映された景色なのである。殆ど現存していないが。
この頃の私は城東の堀切菖蒲園であやめ、花ショウブ、向島百花園で山野草、など、
花の写真ばかり撮っていた時代であり、広角、超広角域しかほぼ使わない今とは
全く違った写真を撮っていたのであった。なので、Biotar75mmF1.5が常用レンズで
あったのだった。サブとしてContaxRTS3にSonnar180mmF2.8をつけて使っていた。
当時は東独崩壊で物も多くあり、しかもある種買いたたかれていた時代だったので、
プラクチナについて使うはずもない長尺は入手しなかったが、モータードライブ(殆ど
壊れていたが)や交換レンズ群は安価で入手した。
最近某所で見たら目茶目茶高くなっていて、手元に残ったものを処分したらかなりな
値段になりそうだが、「50年代にしては美品」と書いて昔オークションに出したら、
傷があったとか何とか云われ、「非常に悪い」とされ、ひどいコメントをされたことを
思い出すと、オークションには「ジャンク扱い」でしか出せない。
どこの世界に40年代、50年代の傷一つないものがあるというんだろう。
某中古店に売りに行ったら2千円とのことであったが、翌週行ったら○万円で売られて
いたとか、いうのも含め、まったく思い出すだに不愉快な思い出である。
撮るのに凝るとこのカメラの事をもっと知りたくなり、海外でRichard Hummel(リヒャルト
フンメル)の「Spiegelreflexkameras Aus Dresden」という本が出されているという情報
を得て(Leipzig/Stuttgart,1994,ISBN 3930846012)、入手しては見たが、私のドイツ語
力では書いてあることが分かるというだけであった。ちょうど98年にこれの翻訳に独自
研究を加えた「東ドイツカメラの全貌」(リヒャルト・フンメル原著、リチャード・クー、村山
昇作訳・著、朝日ソノラマ)が出て、更に同じ朝日ソノラマのクラシックカメラ専科の48号
としてプラクチナの特集号が出たので、このカメラの概要を知りえたものだった。
このカメラは1952年7月にKamerawerkstaetten(KW)よりリリースされた。
KWは1919年にドレスデン市内で創立され、徐々に規模を大きくしていった。
経営者はユダヤ系であった為、Chales Adolf Nobleのアメリカの工場と交換という形で、
ノーベルに譲った。
で、1938年4月チャールズ・アドルフ・ノーベル(1892-1983)の手で新たなKWとして
発足したのであった。
当時ツァイスイコンはペンタプリズムの一眼レフ開発に注力していたが、ノーベルも
一眼レフにかけてKine-Exaktaの向うをはったPraktiflexを普通に売られる一眼レフ
第二号として出荷し、(ソ連のSportとかハンガリーのDuflexは普通に売られていない)
好評を博し、(Kine-Exaktaは1936年4月出荷開始)クイックリターンミラー付世界最初
のカメラとなった(1939年3月出荷開始?)。
Kine Exakta
Praktiflex
クイックリターンミラーというのは今のデジタル一眼レフでも用いられる、シャッター
終えると同時に自動的に復元する鏡板のことで、レンズを外したら見える鏡で、
Kine-Exaktaや戦後登場するContax Sはクイックリターンではなかった。
Contax S(SはSpiegel鏡のS 世界最初のペンタプリズム一眼レフ)
運のいいことにドレスデン空襲で工場の被害が些少であったKWはソ連軍進駐後すぐに
生産を再開した。
ドレスデン空襲は1945年2月13日~15日に英米連合軍によって行われ、エルベ河畔の
フィレンツェと呼ばれたバロック様式の美しい旧ザクセンの首都を灰燼に帰した。
建物の85%が消え、難民が流入していた為、今も人数が不明であるが、民間人を含め
20万人以上が死亡した。通常爆弾での20万人の意味は重いと思う。
今もドレスデン市内には瓦礫が残っている地域が存するようであり、私が知っている時は
ドレスデンの大聖堂の一部はまだつぶれていた。
天を裂く尖塔立ち並んだ美しい町は永遠に消えたのである。
今はかなり復興した姿を見せてはいる。
この爆撃については英国でも最早戦争の決着が見えてからの蛮行で批判が多い。
Historical Picture Dresden 1945(転載)
ともかくアルベルティン家ザクセン王国の首都ドレスデンは崩壊した。
磁器のマイセンはドレスデン近郊で、ザクセン王国(公国)が開いた窯場である。
ちなみにドレスデンから30kmほどでチェコ共和国に入り、国境の町ともいえる。
なおドレスデンのエルベ渓谷沿いは世界遺産に一旦登録されていたが、ドレスデン市内
の渋滞を防ぐための橋を架けた為、世界遺産登録を抹消される処分を受けたが、現在の
市民生活を破壊してまで、世界遺産にこだわる必要はないと私は思う。
モーツァルトの初演はドレスデンであった。
ザクセン公のコレクションはドレスデン美術館(12の美術館で構成)に収められ、その中
にはラファエルロのシスティーナの聖母や、フェルメールの窓辺で手紙を読む女、など
紹介できないほどのコレクションである。
尚ツァイスの本社の有名なエルネマン塔は残ってドレスデン技術博物館となって一部が
公開されており、ドレスデンの20世紀を彩ったカメラ産業ほかの資料を見る事ができる。
で、KWは戦後もプラクティフレックスを改良し続けていたが、並行して「超」高級なカメラを
開発していた。それがプラクチナで、1959年KWが強制的にZeissIkonからKinowerkeと名前
を変えていた企業などと合併させられて、VEB Kamera- und Kinowerke Dresdenとなって
製品統合がなされて消えるまで生産された。
最初はただのPraktinaで、フンメルの108として知られるが、私はこの機体を見た事がない。
1952年7月より1953年8月まで、一万台余りが出荷されたというのにである。
これにX、F接点(フラッシュ<ストロボ>の電気系接点)が追加されたのが、プラクチナFXで
7万台近くが生産され、最もよく見るプラクチナであり、私も7台くらい持っていた。
自動絞りにも対応していたという超近代的なカメラであったが、この自動絞りを更に進化
させて対応した機体が最後のプラクチナⅡAであり、1958年6月から1960年5月まで
生産されて24000台余りが出荷された。
プラクチナのモータードライブ
交換レンズの一例、Flektogon35mm
ⅡA専用交換レンズ、ツァイスのFlexon50mmF2.0
そしてプラクティフレックスの改良型プラクチカに一本化して消滅。
高級カメラはソユーズと一緒に宇宙へ行った、ペンタコンスーパーが最後になった。
逆に東ドイツカメラの単線化によって製品の魅力が減失して1970年代に入って日本製
カメラにとってかわられ、2004年ころ最後のBX20の生産が終了して東ドイツ系のカメラ
は滅亡し、今は旧西ドイツのシュナイダーによって旧ペンタコンが運営されていて、
PrakticaAGとしてデジタルカメラなどを作っている。
非常に懐かしく思えるのは私の散歩のお供であったからで、これまで書いた
WerraやMomikonは資料を使わずに書いたが、これに関しては正確に書こうと
「東ドイツカメラの全貌」など、文中に触れた資料を補完した。
間違いがあったら修正します。