ここまで、見ると分かるように奈良県の古い高校は地名校名である。
愛知県立旭丘高校とか、神奈川県立横浜翠嵐高校とか、東京都立西高校とか、京都府立洛北高校、とは違うパターンである。最近は奈良県立奈良朱雀高校なんてのがあるけれど。
ただ奈良朱雀は平城京の朱雀大路の上に建っているので、まあ地名かもしれないが。奈良朱雀については、
http://naraarchae.exblog.jp/25080912/
を参照。
例外に見えるのがこの畝傍高校で、畝傍高校が所在するのは奈良県橿原市八木地区であるのだが、ここは、八木町と今井町(有名な江戸時代の町並みがある、あそこ)が二大勢力で、激しい誘致合戦が行われ、八木と今井の間の場所で(今郵便局や銀行がある所)ようやく落ち着いたのだが、名前を巡ってまた争いが絶えず、見えない訳ではない、畝傍山(大和三山の一つ、万葉集の歌処)の名前を付けてごまかしたのである。今は完全に八木町の中に移転してあるのだが。
その名を奈良県尋常中学校畝傍分校、(五條は五條分校)と称した。
<なお十津川はこの頃村立なのか私立なのかよく分からない形で、存続し、十津川中学文武館と称するもので、1942年に県立となった>
建っているところは畝傍地区ではないが、確かに橿原市内の地名ではある。
双子のようなこの二つの学校は奈良県中部と南部の拠点校として確固たる地位を築いてきたが、南部の人口流失が著しく、結果五條高校は県下六番目創立の大宇陀高校(小説家黒岩重吾の出身校)程ではないが、底辺校側へ落ちてしまった。
五條分校の方は仮校舎であっさりはじまり、須恵村と岡村から切り出して作られた岡口町に校地を作って1992年に岡町の現在地に移転するまで続き、この校地で楳図かずおなどは卒業した。
単独の中学として独立して、郡山中学、畝傍中学、五條中学(十津川中学)となり、宇陀中学(先ほど述べた大宇陀高校の前身)ができ、更に奈良中学(奈良高校の前身)で奈良県立の旧制中学は打ち止めだったと思う。(多分天理教立の天理中学と東大寺立の金鐘中学<定時制?東大寺学園の前身>があったのではなかったか)
戦時中、畝傍中学には、海軍経理学校橿原分校が同居し、そのせいか、米軍の機銃掃射をうけている。(海軍経理学校橿原分校に関しては「橿原・昭和二十年」という記念誌を参照の事、尚経理学校の施設として使われた橿原神宮内の施設は奈良県立医科大学となり、ここで手塚治虫は研究を行い、医学博士となった。この施設跡は奈良県立医科大学が橿原市四条町に統合移転後廃墟となっていたが、現在は橿原考古学研究所附属博物館となっている。ここが手塚治虫の聖地ということになろうか。博物館の裏に旧奈良県立橿原図書館の建物が残されているが、この建物が紀元2600年記念で建てられた建物で唯一現存するもので、奈良県立医科大学の図書館として一部が使用され、手塚治虫も利用していた。)奈良県立橿原図書館については、
http://naraarchae.exblog.jp/25169711/
を参照。
畝傍中学はすんなりと新制の畝傍高等学校(普通科)へ移行したが、五條中学は五條高等女学校との合併(一旦女学校は奈良県立宇智高等学校になっているが廃校)を経て五條中学の校地で、奈良県立五條高等学校となり、実科もあったことから、女子課程(家政科、廃止)、商業科を持つ総合高校となった。
畝傍高校の校舎は名建築で、いわゆる学校学校した、どこにでもある校舎ではなく、国の指定有形文化財になっている。
1992年に移転した五條高校の現校舎は、これが公立高校の建物か、自問しそうな建物でキリスト教の修道院と見まごう作りで、漏れ聞くところによると、普通の県立高校3校分のおカネを費やしたともいう。
今年は両校、創立百二十年の記念の年で、9月の文化祭で、畝傍高校は記念展示を、五條高校は、五條市立民俗資料館で、OBの考古学者、巽三郎と金谷克己の記念展示を行い、校内で式典を行った。本日(11/18)五條高校は記念の音楽公演会を行っていた。
畝傍高校側にすれば、触れたくないかもしれないのが、奈良県立耳成高校との合併劇だろう。
これは噂だが、畝傍高校が地区の底辺校耳成高校との合併を県からの命令で行う際、校名を「奈良県立万葉高等学校」になどというふざけた提案があったという。
畝傍高校の同窓会(金鵄会)は激怒したという。
ここから先は書けないが、ものすごく色々あったらしい。
奈良県立郡山高校と城内高校の合併とはかなり違う合併だから、横から見ていても理不尽に見えた。(城内高校の前身は郡山農学校で郡山高校と合併していたこともあったから元に帰った的な部分があった)
畝傍高校と五條高校には定時制があり、更に五條高校には、分校もある。
旧西吉野村の賀名生<あのう>分校である。
正式名がなんとややこしい、五條市立奈良県立五條高等学校賀名生分校と称する。
なので、市の採用の教員と、県の採用の教員が混在している。
昼間定時制の農業科と家政科。遂に農業科は全国募集となった。これでよかったと思う。奈良県は基本が農業県であったにもかかわらず、余りにも農業高校につらく当たってきた。
たとえば郡山農業高校は早くに改編で農業高校としてはエンド、御所農業高校もなんだかんだで、御所工業との合併で痕跡を環境緑地科に留めるのみになり、あれを農業科というには、なった。
奈良県立山辺高校(山形県立山辺高校とは違う)は本校では消滅して、生物科学科として痕跡を残し、山添村立奈良県立山辺高等学校山添分校と正式には称する、山添村(奈良県東部の名阪国道筋の山辺郡最後の自治体)の小さな学校が賀名生分校同様、昼間定時制の農業科と家政科の学校として残っている。
少しだけ脱線すると、山辺高校(やまべこうこう)は農業塾「豊原塾」を前身とし<多分山辺郡豊原村にかかる名称なのだろう>、県立の農学校になり、最終的には普通科みたいに改編解体され、1997年に農業科は廃止となった。2013年に生物科学として復活はしたが、本格的な農業科ではない。なお、山形県立山辺高等学校(やまのべと発音する)は1948年に山形県東村山郡山辺町に新設開校した学校で、始めから長崎、大郷、金井の3分校を持っていた。家庭や食物、衛生看護といった実業系の学科を持つ高校であったが、3分校は1960年代初頭に消滅し、家庭科は家政科を経て福祉科となり、衛生看護は2年制の専攻科を持ち、現在は5年制の看護科となっており、食物科と合わせて村山地域の医療・福祉に資する学校となっている。
田原本農業高校は大和郡山市にあった、北和女子高校と合併となり、改編解体されたものの、かろうじて農業系総合高校的なものを維持している。
奈良県においては「銀の匙」・「のうりん」的青春をおくることは難しい。
今回の全国募集というのは、思い切った措置であるが、生き残りをかけた戦いでもある。道は険しいと思うが、何とかいい結果を出してほしいと懇願している。できれば全日制に移行して3年で卒業という方向が望ましいとは思う。家政科を募集停止(廃止だよね本当の所)にして農業科一本。で、ちゃんとした寮も作った。五條高校本体には五條市岡町(南岡地区、本校は越替地区だろうかあそこ)に男子2階建て、女子3階建ての寮があるが、これを共用させてもらっても、バス路線が壊滅している今日通学が不可能に近く、五條市が腰をあげて作ったのだろう。確か修学旅行の代わりに北海道に農業実習という名目の割合長期の旅行がある。弥生時代からの農業県奈良、でのうりん的青春を送る気があるのなら、選択肢としてどうだろうか。
入学式と卒業式のみ皆が揃うようである。
なお、五條高校は西日本で数少ない、公立学校営のスクールバスがある。
静岡県立韮山高等学校を真似て、始めたスクールバスのおかげで、減り続けた、志願者を戻すことにある程度成功し、クラス数減少に歯止めがかかった。基本五條高校と近鉄吉野線福神駅間を走行している。その他、クラブや行事の遠征送迎、など多方面に活用されており、JR和歌山線の運行が改善されない現状、重宝しているとしかいいようがない。
尚韮山高校は明治6年創立の静岡県最古の高校。なんといっても江川担庵(英龍、1801-1855)の弟子柏木忠俊(1824-1878)が1873年に開いたというものすごい学校である。1895年に旧制中学となり、1948年に現在の新制高校となった。尚江川英龍の先祖は伝えられる所では、奈良県五條市宇野町あたりに蟠踞した、源頼親(源満仲<多田満仲>の次男で、藤原道長に「殺人上手」と評された人物、源頼朝は同母弟頼信の子孫)を祖とする、大和源氏宇野氏が、保元の乱~治承・寿永の乱あたりで没落して全国へ散らばったものが伊豆で土着した者と言われ、奈良県五條市と縁がある。
ここまで書いたから、最後に知っていることを書きくわえておこう。香芝-宇陀以南のみ
奈良県立大淀高校は吉野女学校を前身。
奈良県立吉野高校は吉野工業と吉野林業<川上村にあった>を合併した学校。
奈良県立御所実業高校はラグビーで有名だが、御所工業と御所農業(御所東)を合併した学校。
奈良県立青翔高校は元御所高校と称し、御所女学校を前身。
奈良県立高田高校は高田女学校、奈良県立桜井高校は奈良県唯一の女学校として創立した明治起源の学校で、まちがって(失礼)勝ってしまって甲子園に出てしまった。
奈良県立香芝高校、橿原高校、大和広陵高校、高取国際高校は新設校。
奈良県立奈良情報商業高校(奈良市にあるようで紛らわしいが桜井市所在)は
桜井商業高校と志貴高校を合併したもの。
奈良県立榛生昇陽高校は、こんな名前考えたの誰だ、といいたくなる、合併名で、榛原<はいばら>高校と室生<むろう>高校を合併して作った造語。しんせいしょうようとよむらしい。榛原は宇陀高等女学校、室生は新設校だった。
明日、五條高校のサッカー部は、なんと全国高校サッカーの奈良県代表をかけて、奈良市立一条高校と決勝戦をするらしい。
畝傍高校のOBで私知ってるのは、大臣歴任者、奥野誠亮、浪漫派の保田與重郎、舞踏家・俳優の麿赤児、それに樋口清之(梅干と日本人、国学院大学)、森本六爾、網干善教の考古学三羽烏だ。
五條高校のOBとなると、楳図かずおが代表格だが、意外なところで、哲学者の久野収、日本国憲法発布時の法務大臣木村篤太郎、児童文学の花岡大学・川村たかし、記念展示の考古学者、巽三郎・金谷克己、というところだろう。
なお、11月1日の五條高校の式典に際してOBの芸術展が数日あったが、そこにはなんと楳図かずおの完全新作の絵が出品された。
余談であるが、奈良は奈高、郡山は郡高(ぐんこう)、畝傍は畝高、五條は五高と略称されるが、五條は五高と略される愛知県立五条高等学校、長崎県立五島高等学校と間違われることがある。特に愛知県甚目寺<あま市>の五条高校とはややこしく、郵便物が間違って着く事があるらしい。
愛知の五条高校は創立は1972年と新しいが、両校今後何か交流をしたらいいと思う。
<補注>愛知県立五条高等学校は、陸軍の清洲飛行場跡に作られた新設校で、本体は愛知県甚目寺町(現在はあま市と称する)にあるが、体育館は織田信長で有名な清須市にある。名古屋大学への進学実績では定評がある。
長崎県立五島高等学校は、長崎・五島列島・福江藩の石田城の本丸にある。平戸の猶興館高等学校(1880年創立)、大村の大村高等学校(1884年創立)に次いで、1900年に島原高等学校と一緒に創立された。