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考古学・歴史学、趣味の色々な雑文


by nara-archaeol
奈良県の公立高校は奈良県立奈良高校がトップを占める体制になっているが、奈良高校は大正創業の新しい学校で、古さで行くと、孝明天皇(!)の下賜金で幕末作られた奈良県立十津川高校(旧名:文武館)の百五十年余が抜けていて奈良県尋常中学校を前身とする、奈良県立郡山高校(柳沢吉保の子吉里が甲府<山梨>から飛ばされてきた所で、金魚で著名で、赤塚不二夫の出身地)が二番そしてそれの分校として同じ年に創業した、畝傍高校と五條高校となる。

ここまで、見ると分かるように奈良県の古い高校は地名校名である。
愛知県立旭丘高校とか、神奈川県立横浜翠嵐高校とか、東京都立西高校とか、京都府立洛北高校、とは違うパターンである。最近は奈良県立奈良朱雀高校なんてのがあるけれど。
ただ奈良朱雀は平城京の朱雀大路の上に建っているので、まあ地名かもしれないが。奈良朱雀については、
http://naraarchae.exblog.jp/25080912/
を参照。

例外に見えるのがこの畝傍高校で、畝傍高校が所在するのは奈良県橿原市八木地区であるのだが、ここは、八木町と今井町(有名な江戸時代の町並みがある、あそこ)が二大勢力で、激しい誘致合戦が行われ、八木と今井の間の場所で(今郵便局や銀行がある所)ようやく落ち着いたのだが、名前を巡ってまた争いが絶えず、見えない訳ではない、畝傍山(大和三山の一つ、万葉集の歌処)の名前を付けてごまかしたのである。今は完全に八木町の中に移転してあるのだが。

その名を奈良県尋常中学校畝傍分校、(五條は五條分校)と称した。
<なお十津川はこの頃村立なのか私立なのかよく分からない形で、存続し、十津川中学文武館と称するもので、1942年に県立となった>

建っているところは畝傍地区ではないが、確かに橿原市内の地名ではある。

双子のようなこの二つの学校は奈良県中部と南部の拠点校として確固たる地位を築いてきたが、南部の人口流失が著しく、結果五條高校は県下六番目創立の大宇陀高校(小説家黒岩重吾の出身校)程ではないが、底辺校側へ落ちてしまった。

五條分校の方は仮校舎であっさりはじまり、須恵村と岡村から切り出して作られた岡口町に校地を作って1992年に岡町の現在地に移転するまで続き、この校地で楳図かずおなどは卒業した。

単独の中学として独立して、郡山中学、畝傍中学、五條中学(十津川中学)となり、宇陀中学(先ほど述べた大宇陀高校の前身)ができ、更に奈良中学(奈良高校の前身)で奈良県立の旧制中学は打ち止めだったと思う。(多分天理教立の天理中学と東大寺立の金鐘中学<定時制?東大寺学園の前身>があったのではなかったか)

戦時中、畝傍中学には、海軍経理学校橿原分校が同居し、そのせいか、米軍の機銃掃射をうけている。(海軍経理学校橿原分校に関しては「橿原・昭和二十年」という記念誌を参照の事、尚経理学校の施設として使われた橿原神宮内の施設は奈良県立医科大学となり、ここで手塚治虫は研究を行い、医学博士となった。この施設跡は奈良県立医科大学が橿原市四条町に統合移転後廃墟となっていたが、現在は橿原考古学研究所附属博物館となっている。ここが手塚治虫の聖地ということになろうか。博物館の裏に旧奈良県立橿原図書館の建物が残されているが、この建物が紀元2600年記念で建てられた建物で唯一現存するもので、奈良県立医科大学の図書館として一部が使用され、手塚治虫も利用していた。)奈良県立橿原図書館については、
http://naraarchae.exblog.jp/25169711/
を参照。

畝傍中学はすんなりと新制の畝傍高等学校(普通科)へ移行したが、五條中学は五條高等女学校との合併(一旦女学校は奈良県立宇智高等学校になっているが廃校)を経て五條中学の校地で、奈良県立五條高等学校となり、実科もあったことから、女子課程(家政科、廃止)、商業科を持つ総合高校となった。

畝傍高校の校舎は名建築で、いわゆる学校学校した、どこにでもある校舎ではなく、国の指定有形文化財になっている。


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1992年に移転した五條高校の現校舎は、これが公立高校の建物か、自問しそうな建物でキリスト教の修道院と見まごう作りで、漏れ聞くところによると、普通の県立高校3校分のおカネを費やしたともいう。


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今年は両校、創立百二十年の記念の年で、9月の文化祭で、畝傍高校は記念展示を、五條高校は、五條市立民俗資料館で、OBの考古学者、巽三郎と金谷克己の記念展示を行い、校内で式典を行った。本日(11/18)五條高校は記念の音楽公演会を行っていた。

こと進学に関しては水の開いた両校であるが、奈良県教育史を彩った学校であり、弥栄を祈りたい。高校の再再編が噂され、五條、大淀、吉野で統廃合が計画されているという。十津川は廃止を噂され、孝明天皇のご意志で出来たので、天皇陛下の許可を取れと開き直っているらしい。<十津川は存続することになった。全国募集、小児喘息とかで山村留学を考える方はいかがだろうか。吉野が実質廃止で、大淀に吸収されるらしい。吉野の銘木という物がありながら林業系学校がないというのは問題だと思うが。>

まあ驚くのは底辺校側に行った五條高校だが、数年おきに大阪大学や京都大学へ進学するのは他の底辺校には見られない現象で、腐っても鯛ということなのだろうか。
(ここが底辺校側へ行ったのは五條市内に進学校の私立、智弁学園が出来たのも大きい)

畝傍高校側にすれば、触れたくないかもしれないのが、奈良県立耳成高校との合併劇だろう。

これは噂だが、畝傍高校が地区の底辺校耳成高校との合併を県からの命令で行う際、校名を「奈良県立万葉高等学校」になどというふざけた提案があったという。

畝傍高校の同窓会(金鵄会)は激怒したという。

ここから先は書けないが、ものすごく色々あったらしい。

奈良県立郡山高校と城内高校の合併とはかなり違う合併だから、横から見ていても理不尽に見えた。(城内高校の前身は郡山農学校で郡山高校と合併していたこともあったから元に帰った的な部分があった)

畝傍高校と五條高校には定時制があり、更に五條高校には、分校もある。

旧西吉野村の賀名生<あのう>分校である。

正式名がなんとややこしい、五條市立奈良県立五條高等学校賀名生分校と称する。

なので、市の採用の教員と、県の採用の教員が混在している。

昼間定時制の農業科と家政科。遂に農業科は全国募集となった。これでよかったと思う。奈良県は基本が農業県であったにもかかわらず、余りにも農業高校につらく当たってきた。

たとえば郡山農業高校は早くに改編で農業高校としてはエンド、御所農業高校もなんだかんだで、御所工業との合併で痕跡を環境緑地科に留めるのみになり、あれを農業科というには、なった。

奈良県立山辺高校(山形県立山辺高校とは違う)は本校では消滅して、生物科学科として痕跡を残し、山添村立奈良県立山辺高等学校山添分校と正式には称する、山添村(奈良県東部の名阪国道筋の山辺郡最後の自治体)の小さな学校が賀名生分校同様、昼間定時制の農業科と家政科の学校として残っている。

少しだけ脱線すると、山辺高校(やまべこうこう)は農業塾「豊原塾」を前身とし<多分山辺郡豊原村にかかる名称なのだろう>、県立の農学校になり、最終的には普通科みたいに改編解体され、1997年に農業科は廃止となった。2013年に生物科学として復活はしたが、本格的な農業科ではない。なお、山形県立山辺高等学校(やまのべと発音する)は1948年に山形県東村山郡山辺町に新設開校した学校で、始めから長崎、大郷、金井の3分校を持っていた。家庭や食物、衛生看護といった実業系の学科を持つ高校であったが、3分校は1960年代初頭に消滅し、家庭科は家政科を経て福祉科となり、衛生看護は2年制の専攻科を持ち、現在は5年制の看護科となっており、食物科と合わせて村山地域の医療・福祉に資する学校となっている。

田原本農業高校は大和郡山市にあった、北和女子高校と合併となり、改編解体されたものの、かろうじて農業系総合高校的なものを維持している。

奈良県においては「銀の匙」・「のうりん」的青春をおくることは難しい。

今回の全国募集というのは、思い切った措置であるが、生き残りをかけた戦いでもある。道は険しいと思うが、何とかいい結果を出してほしいと懇願している。できれば全日制に移行して3年で卒業という方向が望ましいとは思う。家政科を募集停止(廃止だよね本当の所)にして農業科一本。で、ちゃんとした寮も作った。五條高校本体には五條市岡町(南岡地区、本校は越替地区だろうかあそこ)に男子2階建て、女子3階建ての寮があるが、これを共用させてもらっても、バス路線が壊滅している今日通学が不可能に近く、五條市が腰をあげて作ったのだろう。確か修学旅行の代わりに北海道に農業実習という名目の割合長期の旅行がある。弥生時代からの農業県奈良、でのうりん的青春を送る気があるのなら、選択肢としてどうだろうか。

というわけで、五條高校は奈良県内唯一の、昼間の普通科・商業科、夜間定時制、昼間定時制、並立のけったいな学校である。<なお本校の夜間定時制は廃止となった数年後在校生がいなくなったら消滅する>

入学式と卒業式のみ皆が揃うようである。

なお、五條高校は西日本で数少ない、公立学校営のスクールバスがある。
静岡県立韮山高等学校を真似て、始めたスクールバスのおかげで、減り続けた、志願者を戻すことにある程度成功し、クラス数減少に歯止めがかかった。基本五條高校と近鉄吉野線福神駅間を走行している。その他、クラブや行事の遠征送迎、など多方面に活用されており、JR和歌山線の運行が改善されない現状、重宝しているとしかいいようがない。
尚韮山高校は明治6年創立の静岡県最古の高校。なんといっても江川担庵(英龍、1801-1855)の弟子柏木忠俊(1824-1878)が1873年に開いたというものすごい学校である。1895年に旧制中学となり、1948年に現在の新制高校となった。尚江川英龍の先祖は伝えられる所では、奈良県五條市宇野町あたりに蟠踞した、源頼親(源満仲<多田満仲>の次男で、藤原道長に「殺人上手」と評された人物、源頼朝は同母弟頼信の子孫)を祖とする、大和源氏宇野氏が、保元の乱~治承・寿永の乱あたりで没落して全国へ散らばったものが伊豆で土着した者と言われ、奈良県五條市と縁がある。


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ここまで書いたから、最後に知っていることを書きくわえておこう。香芝-宇陀以南のみ

奈良県立大淀高校は吉野女学校を前身。

奈良県立吉野高校は吉野工業と吉野林業<川上村にあった>を合併した学校。

奈良県立御所実業高校はラグビーで有名だが、御所工業と御所農業(御所東)を合併した学校。

奈良県立青翔高校は元御所高校と称し、御所女学校を前身。

奈良県立高田高校は高田女学校、奈良県立桜井高校は奈良県唯一の女学校として創立した明治起源の学校で、まちがって(失礼)勝ってしまって甲子園に出てしまった。

奈良県立香芝高校、橿原高校、大和広陵高校、高取国際高校は新設校。

奈良県立奈良情報商業高校(奈良市にあるようで紛らわしいが桜井市所在)は
桜井商業高校と志貴高校を合併したもの。

奈良県立榛生昇陽高校は、こんな名前考えたの誰だ、といいたくなる、合併名で、榛原<はいばら>高校と室生<むろう>高校を合併して作った造語。しんせいしょうようとよむらしい。榛原は宇陀高等女学校、室生は新設校だった。



明日、五條高校のサッカー部は、なんと全国高校サッカーの奈良県代表をかけて、奈良市立一条高校と決勝戦をするらしい。
去年も決勝戦で負けているので、今年くらいは百二十年に彩りを添えてほしいものだ。<付記この時はまた負けた。その後遂に全国出れた。仙台育英とPK戦、敗北したらしい>

畝傍高校のOBで私知ってるのは、大臣歴任者、奥野誠亮、浪漫派の保田與重郎、舞踏家・俳優の麿赤児、それに樋口清之(梅干と日本人、国学院大学)、森本六爾、網干善教の考古学三羽烏だ。

五條高校のOBとなると、楳図かずおが代表格だが、意外なところで、哲学者の久野収、日本国憲法発布時の法務大臣木村篤太郎、児童文学の花岡大学・川村たかし、記念展示の考古学者、巽三郎・金谷克己、というところだろう。

なお、11月1日の五條高校の式典に際してOBの芸術展が数日あったが、そこにはなんと楳図かずおの完全新作の絵が出品された。


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余談であるが、奈良は奈高、郡山は郡高(ぐんこう)、畝傍は畝高、五條は五高と略称されるが、五條は五高と略される愛知県立五条高等学校、長崎県立五島高等学校と間違われることがある。特に愛知県甚目寺<あま市>の五条高校とはややこしく、郵便物が間違って着く事があるらしい。
愛知の五条高校は創立は1972年と新しいが、両校今後何か交流をしたらいいと思う。
<補注>愛知県立五条高等学校は、陸軍の清洲飛行場跡に作られた新設校で、本体は愛知県甚目寺町(現在はあま市と称する)にあるが、体育館は織田信長で有名な清須市にある。名古屋大学への進学実績では定評がある。
長崎県立五島高等学校は、長崎・五島列島・福江藩の石田城の本丸にある。平戸の猶興館高等学校(1880年創立)、大村の大村高等学校(1884年創立)に次いで、1900年に島原高等学校と一緒に創立された。

# by nara-archaeol | 2016-11-19 00:25 | つれづれ
名古屋はなぜなのか、大○○が好きらしい。

名古屋駅の前には大名古屋ビルヂングがあるのは有名だ。

ある意味笑いを貴ぶのかもしれない。

有名な事例では、大須ういろさんがある。

ういろ(外郎)とちょっと違う商品を開発したので、外ではなく内にして「ないろ」

とんちがきいてるよね。

更に落ちもあって、黄金色の製品を開発したので、これを「大須わいろ」としようとしたという話。

かなりな自虐ねた。

で、名古屋市西部のJR関西線と近鉄名古屋線の沿線に温泉入浴施設「大名古屋温泉」が
あった。

「大名古屋」である。

できの悪い場末の長島スパーランド浴場化していたのだが。

昭和47年開業、宿泊も可能で、一度飛び込みで泊まったと記憶する。

合計で4回行ったと思うのだが、はっきりしない。

昭和のにおいだらけの施設であった。

さすがに施設的に新たに出来た温泉入浴施設に対抗できなかったのだろう、
平成26年3月に閉館しました。手書きの告知が今時風ではなかったそうな。

で、その9月に解体が始まったのだそうです。

今や門のところだけ残っているらしいのですが、更地状態なのだそう。

近鉄に乗っていると見えたその雄姿?は今どのように見えるのでしょう。

一度見てみたいものですが、昭和の記憶はまた一つ無くなっていたようです。

あのチープさが好きだったんですが。
# by nara-archaeol | 2016-11-18 07:45 | つれづれ
東京・板橋・前野原温泉さやの湯_e0216444_23245489.jpg


以前紹介した鴎外荘に続き、これも東京都区内の温泉である。

昭和20年代に実業家の家として作られた豪邸を再利用、温泉施設として
リビルドしたものである。

もともとが、すばらしい日本家屋であったので、日本旅館感がハンパない、
すぐれた日帰り温泉施設である。

すぐれた庭園を利用し、これは東京都内なのか、と自問自答する露天風呂。

1996年に空家となり、取り壊し対象であったこの建物群を、民家再生建築家の降幡廣信さんと、
作庭家小口基實さんの手によって再生プロジェクトとしてよみがえったものです。

2005年オープン。

うぐいす色を呈する源泉のかけ流しの露天。

元の豪邸を生かした「柿天舎」と称する食事処。

正直かなりおいしいお蕎麦。

少し、駅からは遠いが、それが「温泉」へ行く気分を盛り上げてくれると私は思う。

都営三田線「志村坂上」A2より徒歩10分弱。

一応駐車場も完備。

巣鴨からあっという間で、こんな景色。

城南や城東からならちょっとした旅行気分。

和宮降嫁の際通った中山道沿いであり、中山道志村一里塚が残る。

少し都心寄りには江戸四宿の一つ中山道板橋宿があって、そこで近藤勇は
留置され、近くの板橋刑場で切られた。

このため、JR板橋駅(三田線新板橋)の東口に近藤の供養塔、そして後に作られた墓や、
新撰組隊士永倉新八の墓もある。

そうした史跡を組み合わせれば、ちょっとした旅気分を味わえるだろう。

しかも平日大人870円である。870円、これは私は安いと思う。

タオル借りると310円、手ぶらで行ける。

都会生活に疲れたら、一度どうぞ。

10時−25時 営業。

泊まれないことくらいか、不満は。
# by nara-archaeol | 2016-11-17 23:25 | つれづれ

サヨナラだけが人生だ。

余り寝れなかった。

朝からローソンへ行き、週刊誌を立ち読み、戻ってから、
3月のライオン、10巻まで読み終える。

せつない、というか、力がいる、というか。

心地よい疲労感を覚える。今活字だけの物語を読むのが、
かなり苦痛になっている私にとっては純文学に相当する物語。

で、最後の11、12巻を読もうと思いつつ、カラスにやられたゴミの
片づけをしていると、郵便が来た。

しばらくして見に行くとはがきがあった。

喪中はがき。

Hとあったので、Hくんとこ誰か亡くなったんだなと。

よく見るとHくんの奥さんの名前。

本文読むと、亡くなったのはHくん本人だったのだ。

へなへなとその場に座り込みそうになる。

同時にステージの彼を思い出した。

滂沱。

思えば地震の際、安否の電話を何度かかけて、ようやくつながった折、
入院してるということで、地震でけがしたの、と聞いたら違うというので、
大したことはなかったのかな、と思っていたが、大したことがあったのだ。

6月4日。

おれはその頃何をしていたんだろう。

ここには全く日記を書いていない。

おそらく春の恒例の落ち込みをやっていたのだろう。

奥さんと二人のお子さんは。

お子さんは上が高校へ上がるか、上がらないか、下は小学生だと思う。

眩暈がして、胃が痛くなる。

生唾を飲み、吐き気がしてくる。

へなへなと部屋へ帰り、彼の携帯にかけてみるが、当然のように
電源が入っていません、である。

古い年賀状をさがして、彼の自宅電話をみつけ、かけてみようとするが、
何度も電話番号を間違え、ようやくつながったら、当然留守電だ。

それはそうだ、亡くなっても家族は生活をしないといけない。

奥さんが働きに出ているのは当然だ。

ああ、そんな当然がわからんのだな、おれは。

夜かけておくやみをいおう。

彼とつきあうようになったのはヤフオクでおれの出品したものを
彼が落札してくれて、であった。

ヤフオク原因の友人で残ったのは4人だが、一人は最近忙しいのか
連絡が取りづらくなっているフォトグラファー。

一度大阪梅田で待ち合わせをして痛飲したのを覚えているが、
あれがちゃんと会った最後ではなかったか。

Led Zeppelinトリビュートバンドのギターをやっていた。

今脳がふらふらするので、Mさんに電話して脳を落ち着かせようと
している。

ともかく冥福を祈るしかない。

おれが職場で孤立し、家族も職場の味方で、すべてが敵になった時、
彼はなぐさめてくれた数少ない人であった。

さよならHくん、おれもじきにいくけど、とりあえず、

サヨナラだけが人生だ。


夜になって、もう明日にしようかと思ったのだが、力振り絞って、奥さんに電話。

足の骨折(2箇所)で入院、処置後、一種のエコノミークラス症候群になって、体中に
血栓ができて、それで、あぶなくなり、大学病院に転送、そこで、意識を消失、
人工心肺をつけてしばらくで亡くなったという。

限りなく、医療過誤が一つ二つあったっぽい。

骨折後、基本処置して手術まで1週間放置されていたというのは解せない。

最初の血栓はこの間に生じたのではないのか、と思う。

ともかく最初の骨折を生じた際に、それこそ十字路に行ったら悪魔が待っていた、
みたいな妄想を思ってしまった。(Robert Johnson:Crossroad)

何のひねりもないけど、Hくんの好きなLed ZeppelinのStairway To Heaven

https://www.youtube.com/watch?v=9Q7Vr3yQYWQ

たむけだ。

とりあえず、知人の弁護士と相談してみると奥さんと話を終えた。

全くそんな死に方をするとは。彼の笑顔を思い出した。
# by nara-archaeol | 2016-11-16 12:18 | つれづれ

十津川の道(その1)

9月なかばくらいだったと思う。

昔の職場の先輩Aさんから電話があり、OBで十津川方面へ温泉めぐりに行かないか、
ということであった。

本当に今年に入ってから金が出ていくばかりで、財布にはまったく自信がなかったが、
この大先達に誘われて行かない選択肢はなく、行きますと答えた。

13日くらいになってさすがに旅行代金もある程度確認しないといけないと思い、Aさんに
電話して旅館代金を聞いた。

どうにかして旅行代金を確保して、22日を迎える。

待ち合わせのコンビニに歩いて出かけ、Aさんの車に拾ってもらう。

同乗するのは仲の良かったBさん夫妻である。

始めはもっと広げて完全なOB会的なものも考えたのだが、会いたくない人に
無理に会いたくなく、結局気の置けないこの4人旅行となったのである。

奈良県の南の中心町であった、五條市を縦断して、十津川村へ行こうというのである。

まず私が関わっている資料館へ行く。

現在展示している資料を直接見てもらう。

今までの展示図録いくつかをもらってもらう。

ここで、この五條を中心に地域の概観を。

五條は、日本書紀に天皇が遊びに行く所として登場し、奈良時代には、聖武天皇の
娘、井上内親王=光仁天皇皇后とその子他戸皇太子の二人を追い落とした勢力に
よってここに幽閉され、後毒殺された。桓武天皇はその怨霊と信じる精神神経疾患で、
平城京を捨てて、長岡京を経て遂には平安京まで逃げた。京都御所の横に御霊神社
があるが、それは主に桓武天皇が蹴落とした人々の怨霊神で、今も祀られ続けている。
五條にはこの怨霊のために霊安寺と御霊神社が作られ、独特の信仰形態を現在も伝え
ている。藤原南家の始祖藤原武智麻呂はこの町に葬られ、墳墓堂としての栄山寺八角堂
が作られ、国宝に指定されている。

万葉集巻1
たまきはる内の大野に馬なめて朝踏ますらむその草深野
で出る、内は宇智のことで、五條市の旧地名宇智郡を示す。

平安時代にはこの栄山寺が興福寺勢力に飲み込まれ、町のかなりの部分が興福寺の
荘園化したが、清和源氏の源頼親が大和守の地位を利用してこの町に勢力圏を作り、
大和源氏として跋扈し、子孫は保元の乱に際して京都に攻め上っている。

南北朝の時、南朝の本拠が置かれた所で、後村上、長慶、後亀山三代、及び、拉致
された北朝の光厳、光明、崇光、皇太子萩原宮直仁親王の4人が暮らした。

室町時代に入ると南朝の基盤地であったことから、大和国から一種切り離され、河内・
紀伊守護畠山氏の支配を受けた。結果応仁の乱に際してはこの地域の武士は、
家督を争う畠山義就と畠山政長それぞれに徴発されて、相戦い、消耗し合い、没落した。

江戸時代に入ると、筒井氏遺臣の松倉重政が1万石余りで五條に立藩され、中世豪族
二見氏の居館を再利用した二見城を中心に城下町を築き、伝統的建造物群「五條町」が
形成された。この為民家として建造年代が分かる最古の民家栗山家住宅(重要文化財)
ほかの古い街並みが残ることとなっている。
松倉は大坂の陣の功労で長崎県島原に移り、五條は幕府領となった。尚松倉は島原で
築城による使役と切支丹に対する過剰な弾圧の双方が原因となって島原の乱を起こして
しまい、処罰されて取り潰しとなった。

幕府領となったのは主に五條市と吉野郡であるが、1790年代に入ってきちんと支配して
年貢の効率的運用を行うために五條に陣屋が設けられ、代官が置かれ、初代代官として
河尻春之が赴任し、宇智、吉野、宇陀等の幕府領を支配した。
河尻は後に松前奉行(北海道)になり、間宮林蔵に間宮海峡の存在を探検させ、ロシアと
交易を計ろうとしたが、失脚した。

代官には河尻の後、池田但季、辻守眉、竹内信氓、矢嶋藤蔵、青山秀堅、蓑正路、
竹垣直道、小田又七郎、山上定保、内藤忠倫、松永祐貫、鈴木正信(源内)、中村一顎
が赴任して明治を迎えるのであるが、池田は人生のほとんどを山形県の寒河江市の代官
として活躍した人物で、飢饉に際して餓死者を出すことなく治世を行い、寒河江市と大江町
に顕彰碑が建てられている。寒河江市の日本百名橋の臥龍橋の初代を架けた人物でも
あり、橋のたもとに碑がある。
竹内信氓は勝海舟の父の、あの有名な勝小吉のいとこで、勝小吉の夢酔独言にも登場
する。
鈴木正信は文久三年の天誅組の蜂起の際に殺され、さらし首にされた。

明治維新後は五條県と十津川軍管区となり、最終的に奈良県となった。

明治初年には五條は奈良に次ぐ2番目の人口を持つ、文字通り奈良県第2の町であり、
名実ともに南大和の中心地であった。そこからは転落の日々であったといいかえる事も
可能ではある。

行政区としては宇智吉野郡として郡役所が五條に置かれ、一体支配が行われた。

明治22年大水害が起こり、大塔村・十津川村は壊滅的被害を受け、北海道へ移住を
余儀なくされ、新十津川村となった。

昭和の合併で宇智郡は五條市となって消滅した。

さらに平成の合併で、西吉野村と大塔村は五條市に吸収合併となり、非常に変な形の
市域となって、五條市と十津川村は境界を接するようになった。

結果今回の旅は五條市と十津川村(天川村へ少し寄ったが)の二つ、細かく言えば、
五條市、旧西吉野村、旧大塔村、十津川村、天川村を巡ったことになった。

平成23年9月、再び大水害が起こり、死者も多く出たが、明治22年と違って超過疎地
と化していたため被害者数は過小なものとなったが、山の被害はすさまじく、今も全く
復旧していない所が多い。

などと司馬遼太郎の街道をゆくの概要みたいなことを書いて、その1を終える。
司馬遼太郎にはなれんけど。めざしたいな、街道をゆく。

参考:司馬遼太郎「十津川街道:街道をゆく12」
   五條・大塔村(中井庄五郎のことなど/五條へ/下界への懸橋/「十津川」への散見/
            天辻峠/続・天辻峠/大塔村/辻堂)
   十津川(十津川へ入る/村役場/安堵の果て/新撰組に追われた話/刺客たち/
            廊下の変事/文武館今昔/トチの実)

(その2)に続く
http://naraarchae.exblog.jp/25439687/


# by nara-archaeol | 2016-11-09 09:01 | やじきた道行き